筑駒の自由とボーディングスクールの自由
お久しぶりです、江原です。
先日の第3回ボーディングスクールに起こし頂いたみなさま、誠にありがとうございました。みなさまがボーディングスクール留学をより良く知る機会になったのであれば、BSAJ一同心からうれしく思います。
さて、ボーディングスクールフェアではイベントの後半に、個別のブースを設けて各ボーディングスクールを紹介させていただきました。僕自身もStevenson Schoolを代表して多くのみなさまとお話させて頂いたのですが、その中で非常にクリティカルな質問をいただいたので、それについて今日はシェアしたいと思います。
その質問というのは、筑駒の自由と、ボーディングスクールの自由はどう違うのか、というものです。
少し質問の意図がわかりにくいかと思うので説明します。僕はStevensonに10年生として入学する以前、筑駒と呼ばれる都内の中高一貫校に約3年半通っていました。同校は、学校目標として「自由・闊達の校風のもと、挑戦し、創造し、貢献する生き方をめざす」を掲げており、非常に自由な、言ってしまえば「緩い」校風で知られています。実際校則らしい校則はなく、生徒は思い思いに学校生活を過ごします。僕自身も、授業は興味の範囲で聞きつつも、基本的には部活と学校行事に集中した3年半を過ごしました。僕以外の学生達も、部活や学校行事を中心とした学内での活動が多いとはいえ、学外で活躍する学生も多く、自分の興味が赴くままに生活していた印象があります。
さて一方で、アメリカのボーディングスクールも、生徒が自由に各自の個性が伸ばせる環境が整っていることを売りとしています。僕の例でいえば、こちらの記事でも書いた通り3年間陶芸を続けましたし、自分の興味のあったマイノリティーの活動や、サッカーをはじめとする部活動も続けました。生徒個人の興味を尊重し、各々の主体的な活動を積極的にサポートするという意味で、筑駒とボーディングスクールには大きな共通点があるように思えます。
では、実際に今の僕がその質問に対してどう答えたかというと、以下のとおりです。まず、そもそも2者の謳う「自由」の間に違いがあるかどうかというと、答えは「ある」になります。ではどう違うのか、安直にキーワードをあげるとしたら「多様性」です。
ボーディングスクールにおける多様性という言葉は、しばしば生徒のバックグラウンド、つまり国籍や文化背景などが多様であることを指して使われます。実際その点に関しては筑駒に比べればボーディングスクールが勝っているのは一目瞭然かと思います。筑駒に来る生徒は基本的には似通ったバックグランドを持っていて、性別は男で(男子校ですので)、首都圏在住(かつ多くの場合首都圏育ち)で、子供に中学受験をさせるような考え方や社会的立場を持った保護者のもとに育っています。もちろん生徒個人の興味の範囲は均一でないとはいえ、一発勝負の同じ入学試験を受けて入学した生徒ですから、ある程度は生徒の考え方なども似通っているように感じます。その反面、ボーディングスクールの生徒は世界各国から集まりますし、入学審査もAO入試のようなスタイルを採用しているので、入学してくる生徒の強み弱みもバラバラです。
さて、このような生徒のバックグランドの豊かさという文脈で度々使われるボーディングスクールにおける「多様性」ですが、学校における「自由」に違いを生み出しているのは、教員の「多様性」がひとつの重要な要素だと僕は考えます。教員の多様性というのはつまり、その学校に勤める教員のバックグラウンドの多様さのことです。
ではなぜ教員のバックグラウンドが、学校の「自由」を考える上で重要なのでしょうか?そもそも、僕の考えでは、学生に与えられる学校活動における「自由」というのは、無意識のうちに学校が提供する教育の枠組みに制限されます。なぜなら、いくら学校内において生徒の活動に自由が与えられていようと、その自由には限度があります。つまり、教員の立場からすれば、生徒をある程度は野放しにしようとも、教員の価値観や道徳観に大きく反する生徒の活動に対しては制限を掛けざるをえません。その点において、教員間の多様性は大きな役割を果たします。なぜなら、生徒の享受する「自由」にリミットを設ける役を担う教員側の価値観の幅、つまり寛容さが、教員のバックグランドの多様さで決まるからです。
具体的に筑駒とボーディングスクールの比較をしたほうがわかりやすいかもしれません。筑駒の先生方の多くは、アカデミアをバックグランドとしています。つまり、人生のうちの短くない期間を学者として過ごしてきた方々です。しかし、それ以外のバックグランドを持つ教員はほとんどいません。(少なくとも僕個人はそう感じました。)学者が教員になることを悪いことだと述べるつもりは毛頭ありませんが、筑駒の教員のバックグランドがある種均一化していることは否定できません。一方で、ボーディングスクールの教員のバックグランドは比較的豊かです。国籍や文化背景の多様さも去ることながら、彼らがボーディングスクールの教員になる前にどんな活動に携わっていたかが多様な印象があります。もちろん、アカデミア出身の教員もいますが、教育と関係ない民間企業で働いたバックグランドがある教員もいれば、ジャーナリストをしていた教員がいたり、起業を経験した教員もいます。あくまで僕の経験と推察に基づいているとはいえ、筑駒とボーディングスクールの教員間の多様性はボーディングスクールに大きく軍配が上がります。
高校が生徒個人のキャリアを形成する上で重要な場所であるとするならば、そこで生徒のキャリア選択に多大な影響を及ぼす立場にある教員間のキャリアパスも多様であればあるほどに、生徒に様々な角度からアドバイスし、より広い選択肢の中から最良のサポートを与えられるはずです。生徒が社会のより多くの側面に触れながら自分の未来を形成できることこそが、高校が生徒に対して与えられる最大の「自由」であり、それを担保するのが教員のバックグランドの多様性なのだと僕は考えます。そういった意味で、筑駒生に与えられる自由には、教員の経験の均一さによって知らぬ間に、制限が設けられている気がしてなりません。
もちろん筑駒にも、学校の枠組みを超えて、起業を始め様々なフィールドで活躍する生徒がいます。しかしながら、大多数の生徒が僕のように予め用意された部活動と学校行事の中で6年間を過ごしている印象もいだきます。そのような意味では、ボーディングスクールのほうが筑駒よりも生徒を多くの活動の選択肢に晒し、より多くの世界への扉を開く鍵を与え、より多様な「自由」を提供していると考えます。
筑駒を始め、国内の進学校と呼ばれる学校に在籍する生徒にとってボーディングスクールに進学する選択はリスクが高すぎるように思えるかもしれません。しかし、早い段階から自分の人生により多くの選択肢を与え、広義の自由を手に入れるには、ボーディングスクールは価値のある選択に思えます。この記事が一人でも多くのボーディングスクール進学を決める一助になれば幸いです。
それでは今週はこのへんで!次回はサンディエゴからお送りします。(ちなみに只今夏季休暇で日本滞在中です。)
先日の第3回ボーディングスクールに起こし頂いたみなさま、誠にありがとうございました。みなさまがボーディングスクール留学をより良く知る機会になったのであれば、BSAJ一同心からうれしく思います。
さて、ボーディングスクールフェアではイベントの後半に、個別のブースを設けて各ボーディングスクールを紹介させていただきました。僕自身もStevenson Schoolを代表して多くのみなさまとお話させて頂いたのですが、その中で非常にクリティカルな質問をいただいたので、それについて今日はシェアしたいと思います。
その質問というのは、筑駒の自由と、ボーディングスクールの自由はどう違うのか、というものです。
少し質問の意図がわかりにくいかと思うので説明します。僕はStevensonに10年生として入学する以前、筑駒と呼ばれる都内の中高一貫校に約3年半通っていました。同校は、学校目標として「自由・闊達の校風のもと、挑戦し、創造し、貢献する生き方をめざす」を掲げており、非常に自由な、言ってしまえば「緩い」校風で知られています。実際校則らしい校則はなく、生徒は思い思いに学校生活を過ごします。僕自身も、授業は興味の範囲で聞きつつも、基本的には部活と学校行事に集中した3年半を過ごしました。僕以外の学生達も、部活や学校行事を中心とした学内での活動が多いとはいえ、学外で活躍する学生も多く、自分の興味が赴くままに生活していた印象があります。
さて一方で、アメリカのボーディングスクールも、生徒が自由に各自の個性が伸ばせる環境が整っていることを売りとしています。僕の例でいえば、こちらの記事でも書いた通り3年間陶芸を続けましたし、自分の興味のあったマイノリティーの活動や、サッカーをはじめとする部活動も続けました。生徒個人の興味を尊重し、各々の主体的な活動を積極的にサポートするという意味で、筑駒とボーディングスクールには大きな共通点があるように思えます。
では、実際に今の僕がその質問に対してどう答えたかというと、以下のとおりです。まず、そもそも2者の謳う「自由」の間に違いがあるかどうかというと、答えは「ある」になります。ではどう違うのか、安直にキーワードをあげるとしたら「多様性」です。
ボーディングスクールにおける多様性という言葉は、しばしば生徒のバックグラウンド、つまり国籍や文化背景などが多様であることを指して使われます。実際その点に関しては筑駒に比べればボーディングスクールが勝っているのは一目瞭然かと思います。筑駒に来る生徒は基本的には似通ったバックグランドを持っていて、性別は男で(男子校ですので)、首都圏在住(かつ多くの場合首都圏育ち)で、子供に中学受験をさせるような考え方や社会的立場を持った保護者のもとに育っています。もちろん生徒個人の興味の範囲は均一でないとはいえ、一発勝負の同じ入学試験を受けて入学した生徒ですから、ある程度は生徒の考え方なども似通っているように感じます。その反面、ボーディングスクールの生徒は世界各国から集まりますし、入学審査もAO入試のようなスタイルを採用しているので、入学してくる生徒の強み弱みもバラバラです。
さて、このような生徒のバックグランドの豊かさという文脈で度々使われるボーディングスクールにおける「多様性」ですが、学校における「自由」に違いを生み出しているのは、教員の「多様性」がひとつの重要な要素だと僕は考えます。教員の多様性というのはつまり、その学校に勤める教員のバックグラウンドの多様さのことです。
ではなぜ教員のバックグラウンドが、学校の「自由」を考える上で重要なのでしょうか?そもそも、僕の考えでは、学生に与えられる学校活動における「自由」というのは、無意識のうちに学校が提供する教育の枠組みに制限されます。なぜなら、いくら学校内において生徒の活動に自由が与えられていようと、その自由には限度があります。つまり、教員の立場からすれば、生徒をある程度は野放しにしようとも、教員の価値観や道徳観に大きく反する生徒の活動に対しては制限を掛けざるをえません。その点において、教員間の多様性は大きな役割を果たします。なぜなら、生徒の享受する「自由」にリミットを設ける役を担う教員側の価値観の幅、つまり寛容さが、教員のバックグランドの多様さで決まるからです。
具体的に筑駒とボーディングスクールの比較をしたほうがわかりやすいかもしれません。筑駒の先生方の多くは、アカデミアをバックグランドとしています。つまり、人生のうちの短くない期間を学者として過ごしてきた方々です。しかし、それ以外のバックグランドを持つ教員はほとんどいません。(少なくとも僕個人はそう感じました。)学者が教員になることを悪いことだと述べるつもりは毛頭ありませんが、筑駒の教員のバックグランドがある種均一化していることは否定できません。一方で、ボーディングスクールの教員のバックグランドは比較的豊かです。国籍や文化背景の多様さも去ることながら、彼らがボーディングスクールの教員になる前にどんな活動に携わっていたかが多様な印象があります。もちろん、アカデミア出身の教員もいますが、教育と関係ない民間企業で働いたバックグランドがある教員もいれば、ジャーナリストをしていた教員がいたり、起業を経験した教員もいます。あくまで僕の経験と推察に基づいているとはいえ、筑駒とボーディングスクールの教員間の多様性はボーディングスクールに大きく軍配が上がります。
ここで一枚カリフォルニアの写真を。 |
高校が生徒個人のキャリアを形成する上で重要な場所であるとするならば、そこで生徒のキャリア選択に多大な影響を及ぼす立場にある教員間のキャリアパスも多様であればあるほどに、生徒に様々な角度からアドバイスし、より広い選択肢の中から最良のサポートを与えられるはずです。生徒が社会のより多くの側面に触れながら自分の未来を形成できることこそが、高校が生徒に対して与えられる最大の「自由」であり、それを担保するのが教員のバックグランドの多様性なのだと僕は考えます。そういった意味で、筑駒生に与えられる自由には、教員の経験の均一さによって知らぬ間に、制限が設けられている気がしてなりません。
もちろん筑駒にも、学校の枠組みを超えて、起業を始め様々なフィールドで活躍する生徒がいます。しかしながら、大多数の生徒が僕のように予め用意された部活動と学校行事の中で6年間を過ごしている印象もいだきます。そのような意味では、ボーディングスクールのほうが筑駒よりも生徒を多くの活動の選択肢に晒し、より多くの世界への扉を開く鍵を与え、より多様な「自由」を提供していると考えます。
筑駒を始め、国内の進学校と呼ばれる学校に在籍する生徒にとってボーディングスクールに進学する選択はリスクが高すぎるように思えるかもしれません。しかし、早い段階から自分の人生により多くの選択肢を与え、広義の自由を手に入れるには、ボーディングスクールは価値のある選択に思えます。この記事が一人でも多くのボーディングスクール進学を決める一助になれば幸いです。
それでは今週はこのへんで!次回はサンディエゴからお送りします。(ちなみに只今夏季休暇で日本滞在中です。)
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